お金にならないけど自分にとって価値のあるものというのがあります。この椅子もそのひとつです。ボクにとってこの椅子は、幼い頃からの物語がここで語られている場所でもあるのです。
ボクはおばあちゃんが嫌いでした
赤ん坊の頃の記憶がある人とないひとがいるらしいのですが、ボクは1歳の時の誕生日の出来事を鮮明に覚えています。目の前でろうそくが揺らめいていて、母親と違う人の膝の上に抱かれて、その人がなにやら耳元で話しかけているのです。とても不快でした。もうやめて欲しいと思っていました。その不快さは臭いなのか雰囲気なのか覚えていません。とにかく不快であったということとは覚えています。このときボクを抱いていた人が父方のおばあちゃんだったんです。
その1歳の誕生日のときの写真もあるのですが、ほんとうに露骨にそっぷむいてますよ。なぜ嫌いだったのかは、わかりません。おばあちゃんが話しかけると「ぷいっ」と無視して、どっかに逃げてました。そうするとおばあちゃんが泣き出すんですよ...それでいっそう、うっとうしくなってよけい無視するようになりました。
さすがにすこし大きくなってくると、申し訳ないように思うようになるんですよ。具体的に嫌いな理由がないわけですから。これは自分を変える必要があるのではないかと、幼いながらに思ったわけです。
おねだりでもしてみようか
じゃちょっと自分から甘えてみようかと思って、ほしいものをおねだりしてみたんですよ。何を買ってもらったかは覚えていません。実はそんなに欲しいものでもなかったのかもしれません。ただ、それを買ってもらって喜んでいるボクを見て、おばあちゃんがほんとうにうれしそうだったのは覚えています。
もともと子供ながらにも物欲はそんなにになかったので、欲しいものもなかったんです。ちょっとしたものを買うたびにおばあちゃんがうれしそうにしている。そういうことを何度も繰り返して、多少の違和感は感じながらも歳月は流れました。何を買ってもらったかは全然覚えていないのに、買い物に行くたびにおばあちゃんがうれしそうにしている、そういった光景だけは今でも覚えています。
50万円の現金
18歳のときに家のピアノがボロボロなので、買い換えようと思いました。そのときの貯金とちょっとバイトしたお金、足りない分は親に保証人になってもらってローンでも組むしかないかと思っていました。
その話を父親がおばあちゃんにしたんでしょうか、おばあちゃんから父親を通じて50万円の現金をもらいました。使い道のない年金なので役立ててくれということらしいのです。
ありがたいことですよ。自分のお金とピアノの下取り分とおばあちゃんからもらった50万で、その当時ですが小さいながらもグランドピアノを買うことが出来ました。真っ先におばあちゃんにもお礼の電話を入れました。ピアノを買ったボクよりもうれしそうな声が電話口から聞こえてきました。まさしくこのピアノはおばあちゃんに買ってもらったピアノでした。
気まぐれから生まれたもの
その後は、もう朝から晩までピアノを弾いて、ご近所からは苦情と一部の方から賞賛(拍手!)をいただき、このときに今の練習の虫の習慣が完全にできあがりました。このときのこの出来事がなければ、ボクは音楽で生活するということは考えなかったと思います。
ただ、おばあちゃんがその後、貯めた年金の一部をちょくちょくボクにくれるようになりました。これにはちょっと困惑しました。そのたびにお礼の電話を入れます。で、おばあちゃんのうれしそうな声。
幼い頃にちょっとした気まぐれでしたおねだりが、こんなかたちで影響するようになってしまっていたのです。その頃にはもうおばあちゃんのことは嫌いでもなかったですし、さして理由のないお金はかえって困惑するばかりなんですよ。父親からは「大事な年金の一部を云々」という前置きでお金を渡され、そのあとに電話...。「もうお金はいいから...」といっても数ヶ月後には、またくれます。
幼い頃の気まぐれのことを思い出したら、とても素直に喜べませんでした。それは何かとても悪いことをしているような感覚になったのです。
その数年後、おばあちゃんはあっけなく亡くなりました。
そして椅子だけが残った
その後、毎日8時間の練習で酷使したピアノも寿命となり新しいピアノを買うことになりました。当時、円高の影響でヨーロッパのピアノが格安で買うことが出来ました。すでにひとり暮らしを始めていましたので、自分の生活スペースにあったアップライトピアノを買うことにしました。
グランドピアノは下取りに出しました。しかしどういうことか、業者が椅子を持って帰るのを忘れたようなのです。だから新しいピアノも使い慣れたこの椅子で弾くことにしました。
アコーディオンの練習もこの椅子で始めました。アコーディオンの背負いベルトが椅子の背もたれにあたるので、椅子が傷だらけになりました。
それから犬と暮らすようになり、
椅子をかじられ傷だらけにされて、
いろんな人がボクの前を通り過ぎていき、
やがて一緒に暮らしていた犬も亡くなり、
めまぐるしく時がたちました。
新しい犬と暮らし始めて、
やっぱりこの椅子をかじって傷だらけにして、
相変わらずボクはこの椅子に座って毎日アコーディオンを弾いています。
時はめまぐるしく通り過ぎて、椅子のキズは時を刻むたびに増え続け、時の流れは同じようにボクのこころにもいろんなものを残していきました。
本当の価値とは
いつの日かボクが亡くなってしまったときに、この椅子を見てボクのことを思い出す人はいるのだろうか。そんなことを考えたときに、我々を囲んでいるものたちは親しい人たちとともに暮らした日々の証人で、大切な想い出を記憶するもののような気がしました。
他人から見れば傷だらけの汚い椅子ですが、ボクにとっては自分が歩いてきた道を思い出させてくれる大切な存在なのです。そして考えてみれば、自分自身の存在もまた他人から見ればただの汚れた椅子にしかすぎず、そこに意味を見いだすのは自分自身でしかないということなのです。自分自身の本当の価値は自分自身で歩いてきた道からしか見つけられないものなのですから。